慶長5(1600)年に黒田長政が関が原の戦いの功により豊前中津から筑前に入国し、慶長6(1601)年に黒田六端城の一つとして築城され、黒田家の重臣中間(黒田)六郎右衛門が城主を務めました。元和元(1615)年幕府の一国一城令により取り壊されますが、豊前小倉藩との国境を守る重要な出城であったことは間違いありません。現在は福岡県指定史跡「松尾城跡」として整備され、当時を偲ぶことがでます。
松尾城跡
平成10年、小石原村(現在は東峰村)が松尾城跡調査を開始して、平成14年に福岡県史跡に指定され、平成23年に松尾城保存整備が完了しました。
位置と環境
松尾城跡のある東峰村大字小石原は、南に流れる大肥川と西に流れる小石原川の源流にあたり、標高480mの高原盆地であるため、城として地形的条件に適した場所である。
小石原は、古来より交通の要衝で、小倉街道と英彦山街道の交差する場所であり、松尾城跡は小石原高原盆地の小高い山にある。ここから、東に1kmの所に行者堂があり、このあたりが筑前と豊前小倉との国境でもあり、この地点が地理上の要衝であったことを十分に認識することができる。
また近年の調査で、28ヶ所が確認されている筑前と豊前小倉の国境を示す国境石は、行者堂付近から二股山にかけての1.5kmほどの非常に短い範囲に残っていることから国境争いの歴史を今に伝える貴重な史跡である。
松尾城と中間(黒田)六郎右衛門
松尾城は、戦国時代、宝珠山山城守という者の居城だったという。東峰村宝珠山にある烏嶽城には、秋月氏の一族で郡士宝珠山遠江守という者が在城していたという記録があるので、松尾城主の山城守もその縁の者で、秋月氏の家臣だったと思われる。当時、秋月氏は豊後の大友氏と攻防をくり返していたので、この城も幾度となく戦火に見舞われたことだろう。
天正15(1587)年、秋月氏が豊臣秀吉に降伏して、この一帯は秋月の支配から離れたため、山城守は、その後は小早川隆景やその子秀秋へと臣従した。
慶長5(1600)年、黒田長政が関ヶ原の戦いの功によって豊前中津から筑前に入国した後は、黒田の支配下となり、慶長6(1601)年、黒田長政は福岡本城の築城と同時に国境防衛のため6ヵ所に出城を設け、それぞれ重臣を配して守備につかせた。このとき松尾城主に抜擢されたのが中間六郎右衛門である。
中間六郎右衛門は、現在の中津市耶馬溪町にある一戸城の城主だったが、天正15(1587)年、秀吉の九州平定後、黒田官兵衛が豊前六郡の新領主となって入国すると家臣となった。当時の豊前六郡の土豪たちは、黒田氏の入国に反対し、肥後の土豪の一揆が起こると、豊前の土豪も、宇都宮鎮房を盟主として、反乱を起こす。このとき、中間六郎右衛門は、当初は反乱に加わるがやがて傘下に加わり、豊前平定に貢献した。中間六郎右衛門は、新領主である黒田官兵衛を助け、忠節を尽くしたので黒田家の重臣として信頼され、後に黒田姓を授かり一門扱いとして黒田六郎右衛門となった。
黒田氏の筑前入国にあたって中間氏は一族郎党とともに移住してきたが、筑前と豊前小倉の大事な国境線に、隣国の地理や事情に詳しく、しかも最も信頼のおける中間氏を配置した。
中間六郎右衛門は、元和元(1615)年、幕府の一国一城令によって松尾城が取り壊されるまでの約14年間城主だったが、その間大きな紛争もなく平和な日々を送ったと思われる。親友の大隈城主、後藤又兵衛は三里の道を訪ねて歓談したという。近年まで残っていた後藤橋は、そのときの名残であろうか。大きな石の橋のの中ほどに蹄の跡のようなくぼみが残っていたようだ。
六郎右衛門の父は忍可(民可ともいう)といい、隠居料として百石を支給されていた。隠居地の跡は大字小石原鼓東の高木神社近くの畑と思われる。石垣のそり方が武家屋敷の雰囲気を感じさせる。六郎右衛門の在城中に父母ともこの地で死去している。二人の墓は、東峰村大字小石原鼓の高木神社境内の大鳥居前の草むらに苔むして並んでいる。長い風雪にさらされ、風化がはげしいため正面中央上部の梵字以外は判然としないが、かすかに「忍可居士」の文字と、妻の墓石からは「慶長八年」の文字が判読できる。松尾城が取り壊された後、中間六郎右衛門は、福岡に移り住んだ。
松尾城が壊されて約200年後の文化12(1815)年、秋月藩士土井正就が測量製図した松尾古城図を見ると、現在は杉林だが、当時は竹林で見にくかったと説明している。この図を元に現地を比べ見ると、ほとんどそのまま残っているとみてよい。掘切の位置、数、石垣の崩れ具合までぴったりである。わずかながら自生する矢竹を見ることができる。
松尾城の遺構
主郭斜面には畝状(うねじょう)竪堀が北側に13本と南側に11本あり、東側の尾根には堀切りが3本ある。畝状竪堀は尾根脇の斜面を等高線と直角に交わる方向に掘った竪掘とその脇の竪土塁を交互に畝状に並べ築いたもので、山麓から攻め登ってくる敵を阻止するためのもで、堀切りは丘陵の尾根上を遮断する掘のことである。
丘陵中央部には二段に造成された主郭がある。下段の西側には幅4mほど城の出入口である虎口(こぐち)があり、東中央部に3間×5間の建物礎石がある。上段は1,2mほど高く、西端北側に3間×5間・東側に1間×1間の建物礎石がある。また、東端に約5m×16m・高さ70cmほどの櫓台がある。また、主郭部を囲うように全周160mほどの土塁と石垣が巡る。北側の土塁下部は地山に含まれる石を雑に積み、この石垣を包むように盛土が版築されている。南側は塔ノ瀬地区や鼓地区西側に見られる花崗岩を多く使っている。また、主郭中央部南北や西北部に「横矢」と呼ばれる城壁に迫った敵兵に対し側面から攻撃するために石垣線を部分的に突出したり、虎口の側面を張出したりした部分があり、戦闘を意識した造りになっている。
出土遺物には、中世の青磁・白磁・赤絵・染付の碗皿片、黒色土器・瓦器碗片、近世の陶器碗・鉢片、時期不明の鉄滓、碾き臼、石塔、などがある。ただ、瓦は出土していない。
※松尾城に関する資料・写真は東峰村教育委員会に提供いただきました。(東峰見聞録管理人)
アクセス
松尾城へは、マイカーが便利です。
- マイカー:県道211号及び国道500号沿い小石原交差点そば