棟方志功拜筆道祖神石碑

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道祖神1
道祖神2
【棟方志功筆 道祖神の石碑】
 所在地:小石原工芸館
石碑文
【石碑の裏にある三宅の思い】
 「民芸の保存育成を志して昭和
36年工芸館の分館を建て今また
此処に道祖神を祀る
 工芸館を母体に民芸運動を推
進する日本民芸協団と共に日本
民芸の弥栄を念じて」
 昭和37年秋
 財団法人 日本工芸館
 館長 三宅忠一

■棟方志巧画伯と道祖神
期日:昭和37年11月16日
場所:日本工芸館小石原分館

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小石原焼と民芸運動  

小石原焼と民芸運動

日本民芸館 民芸運動は、大正時代後半に柳宗悦(1889〜1961)が中心となって始まった工芸をめぐる運動である。この運動を担う主要な団体が二つ存在し、ひとつは柳を会長として1934年(昭和9年)に組織された日本民芸協会であり、1936年(昭和11年)に開設された日本民芸館は、現在もその活動の拠点となっている。いまひとつは、民芸協会の会員でありながら柳の考えに反発し、協会を脱退した三宅忠一が中心となって、1959年(昭和34年)に組織された日本民芸協団であり、大阪に開設された日本工芸館を活動の拠点としている。小石原焼はこの二つの民芸運動にともに深く関係している。
 柳によれば、民芸とは、(1)自然の美(2)伝統の美(3)素朴な美(4)機能美をもち、(5)健康的で、(6)大量生産され、(7)安価であり、(8)無名性をもった工芸品とされる。
 民芸運動による小石原焼の再発見の経緯は、直接的ではなく、むしろ大分県日田市の小鹿田(おんた)を通してであった。柳は、1927年(昭和2年)、久留米の荒物屋で小鹿田焼を初めて目にし、その美しさに惹かれ、4年後の1931年(昭和6年)、小鹿田を訪れている。その際、柳は「日田の皿山」という文章を書いているが、この文章中の小鹿田焼の開窯に関する記述で「小石原」の名が記されている。(小鹿田焼の始まりは、小石原焼の陶工が小鹿田に移り新皿山を開いたとされます。)
 1933年(昭和8年)には運動の初期からの中心人物であり、後に倉敷民芸館の館長を務めた外村吉之介が小石原を訪れ、「小石原から小鹿田へ」という文章を残している。運動同人は、民芸の対象となりうる各地の窯場(窯業地)のことを特に「民窯」と呼んだが、1934年(昭和9年)の「工芸」39号で全国の民窯を紹介する「今も続く日本の民窯」という特集を組んでおり、小石原もその一つとして紹介されている。また、1944年(昭和19年)月刊民芸第59号の「現代日本民芸総覧」でも取り上げられており、小石原が運動にとって関わりのある産地として確立していったと思われる。
 小石原の人々がこうした関係を自覚するのは、1954年の柳宗悦、河井寛次郎、濱田庄司そしてバーナード・リーチの来村の時からだろう。リーチはイギリスの陶芸家で、民芸運動との関係はきわめて深い。柳とは1909年(明治42年)エッチングの講師として来日し、白樺派の同人と交流を持ってからの友人であり、また陶芸の道に進んでからも、イギリスで濱田とともに窯を築くなど、運動の同人にとっては終生の友人であった。
  リーチは、1954年(昭和29年)4月、小鹿田に約3週間滞在し、作陶を行っており、この際に小石原の陶工が小鹿田にリーチを訪ねて交流があった。また、5月には柳らと小石原を訪れており、当時67歳と既に陶芸家として大きな名声を得ていたバーナード・リーチの来村は、マスコミで大きく取り上げられ、小鹿田だけでなく小石原の知名度が高まる大きな契機となった。
               文責:東峰見聞録管理人  参考文献:小石原村誌

小石原焼と日本民芸協団

日本工芸館 小石原に大きな影響を与えたのは、柳宗悦らによる民芸運動の母体たる日本民芸協会ではなく、三宅忠一(1900〜1980)が設立した日本民芸協団というもう一つの民芸運動の実践である。
 三宅忠一は、柳の著書「工芸の道」(1928)に感銘を受け、1935年(昭和10年)頃から民芸運動に参加し、戦後北海道の民芸の調査を柳に任されるなど、日本民芸協会の中心的メンバーの一人になっていく。また、大阪の料理店スエヒロ本店の店長になるなど実業家でもあった。そしてその大阪に地盤をおき、精力的に運動を推進していった。
 1951年(昭和26年)には、日本民芸協会大阪支部の運動拠点として日本工芸館を建設し、1955年(昭和30年)には、大阪支部から発展的解消をとげた大阪民芸協会の機関誌として「日本の工芸」を発刊している。
 しかし、このような精力的な活動を続けてきたにもかかわらず、三宅は1959年(昭和34年)柳らとの考え方の相違を理由に、日本民芸協会を脱会し、新たに同調者を募り、日本民芸協団を設立する。三宅は、戦後の民芸運動は個人作家中心に進んできており、それが民芸本来の工人の仕事に禍(わざわい)している。と批判し、民芸運動は作家の関与を排して工人の生産活動を助成すべきだと主張していた。その意見が協会に受け入れられないので、自身の信じる活動を推進するには、協会と袂を分かたざるを得なかったという。そして分立後も柳理論の正しい実践者であることを標榜しつつ、その経済的能力を精力的に発揮して、産地の生産を振興する方策を次々と実行していった。三宅は、民衆の生活を直接的に救済するものとして民芸運動をとらえていた。
旧小石原工芸館 日本民芸協団は、新たに建て直された大阪の日本工芸館を拠点として、全国で50を超える支部を持つ大きな組織となった。そして三宅が最も精力的に自らの思想の実践を試みていったのが小石原だった。
 1991年当時の小石原焼陶器協同組合長梶原藤徳は、現在の小石原焼の拡大を「景気」とした上で、その景気を生んだ要因として次の4つをあげる。@1961年(昭和36年)三宅によって日本工芸館小石原分館が設立されたこと。A工芸館と陶器協同組合による発案で「民陶祭」が開催され、現在も「民陶むら祭」として続いていること。B1975年(昭和50年)通産省の伝統的工芸品に指定されたこと。C窯元の後継者たちが「作れば売れる」という時代が過ぎ、本気になって仕事に取り組んでいること。これらの要因のうち、@からBまでが、直接または間接に三宅の実践によるものである。
 離反した協会側が小鹿田を「民芸の聖地」のようにとらえるのに対して、三宅は小石原を自らの手で育てあげていこうという考えもあったと思われる。そして三宅は、大物から民芸的な小物への転換など、窯元への啓蒙的な働きかけと同時に、私費を投じて経済的な支援も行っていった。小石原を愛し、発展を願う三宅の情熱がなければ小石原焼の今日の発展はなかったであろう。
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 小石原焼の特徴と伝統技法の紹介ページはこちら
             文責:東峰見聞録管理人  参考文献:小石原村誌

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